ラベル 

最近の学生を見ていて思うことですが、「全然分からない」って言いすぎです。
スワヒリ語の論文を読めとでも言われれば別ですが、学校で習う勉強程度で、「全然」分からないという状況に陥ることはないと思うのです。スワヒリ語と言いましたが、江戸時代には辞書もない時代にオランダ語の「ターヘル・アナトミア」を日本語に訳した人たちもいるのですよ。解体新書の杉田玄白らですが、一日かかって一行解読するようなペースだったと聞いたことがあります。それくらいじっくり考えれば、何か分かるようになるものです。頭を使って考えることです。
そういう努力もなしに「分からない」というのは、思考の放棄にしか思えないのです。個別指導の塾講師をしていて言うのも何ですが、何でもかんでも人に教わろうとしていてはいけないと思うのです。もっと自分の力で本を読み解きなさい。1回読んで分からなければ2回読みなさい。分からなければ分かるまで読みなさい。「読書百遍、意自ずから通ず」などと申します。それくらいの努力をしてなお分からなければ質問しましょう。先達はあらまほしきものかな、と申します。それくらいの努力をしてくれれば、それに報いるだけのことは教えてあげます。

思うのですが、自分で「分からない」というと、分かることも分からなくなるのではないかと。自分に暗示をかけるというか、ラベリングしているとでもいいましょうか。思考は具現化するものですし、それを口に出してしまえば尚更だと思うのです。分からないというとその時点で思考がストップします。分からないというヒマがあったら考えなさい。

私は根本的に人に物を教わるのが好きでないということもありますが、高校時代は学校の授業も聞いていませんでしたし、塾にも行っていませんでした。頼るものは参考書だけです。分かるまで読めば分かるものです。こういうことじゃないかな、と考え、それが合っているかどうか実証するのです。どうしても分からないところも、自分の中に置いておくのです。しばらく寝かせておくと、ある時ふっと分かることもありますし、そのまま忘れてしまうこともあります。忘れるようなことはどうせ重要なことではないでしょう。
例えば数学なら、一度答えを熟読して理解しながら手を動かして模写し、そのあと同じ問題を2,3回も解けば身に着くものです。英語なら、一つの長文をじっくり理解してから、30回も音読すれば身に着くものです。杉田玄白になったつもりでやりなさい。それくらいの努力をしなさい。

多少違うかもしれませんが、かのガンディーの言葉だそうです。
「明日死ぬつもりで生きなさい。ずっと死なないつもりで勉強しなさい」
感服しました。肝に銘じます。